2014年11月27日木曜日

宇宙の真理?



なかなか深い!と、毎度感心してしまう こちら より。
またまた長くなるけれど (笑)

- 見失っていた自分の 「 内なる感覚 」 を見つける -

この社会には、あなたも他の人々と同じように行動するだろう
という強い期待感が存在する。
しかし、もしあなたが少しでも違う行動をした瞬間、あなたは
変人になり異邦人になる。
そして人々はそうした異邦人や変人を極端に怖れる。

人々は常に自分たちに適した群集の中にいたいと思っている。
あなたが人と違う行動をしたとたん、群集全体が疑いを持つ。
何かがおかしい。

彼らはあなたを知っているので、あなたの変化に気づくことができる。
彼らはあなたが、人々と同じようにしていた時のあなたを知っている。
しかし今彼らは、あなたが自分の考えるようにやり、自分自身を受け
入れているあなたに気がついている。

この社会では誰 1 人として、自分自身を受け入れている人はいない。

そしてみんな自分自身を嫌い、非難ばかりしている。
しかしこれはこの社会のライフスタイルなのだ。
そして、あなたが自分を非難せず、自分自身を受け入れて生きるように
なると、あなたはこの社会から脱落することになる。

そして社会は自分たちの仲間から抜ける人を許さない。
なぜなら社会は数で成り立っているからだ。
それは数の政治なのだ。
仲間の数が多いほど人々の気分はよい。

数が多いほど、人々は自分たちが正しいに違いないと感じる。
こんなに多い自分たちが、何百万という仲間の人々が一緒にいるのに
自分たちが間違っているはずがないと。

そして彼らが1人で残されると、大きな疑問と不安が湧いてくる。
   
私と一緒にいる人は誰もいない。
では私が正しいという証拠はどこにあるのだろうか? 
この世界では1人で、個人でいることが最大の勇気だ、と私が言うのは
このためなのだ。
もっとも怖れのない立場に立つためには、個人である必要がある。
「 世界中が私に反対しても構わない。 大切なのは ( 群集と同じように
動くことではなく )、私が自分のためにする体験が有効なのだ 」
ということだ。

私は数を見ない。

どれだけ多くの人が私と同じ意見であるかどうかは関係ない。
私は私の体験が妥当かどうかしか見ない。
つまり、自分がオウムのように、ただ誰かの意見や言葉を繰り返して
いるだけなのか、あるいは私の言葉の源が私自身の体験の中にあるか
どうかだけを見るのだ。

もしそれが自分自身の体験の中にあり、それが自分の骨肉の一部である
ならば、全世界が敵対する側になろうとも、私が正しくて彼らが間違っている。

それで構わないのだ。

自分が正しいと感じるために、私は彼らの私への同意や投票を
必要とはしない。
他人の意見に従って生きている者だけが、他人の同意と支持を
必要としているのだ。
そしてこれが、今までの人間社会が機能する方法だった。
これこそが、社会があなたを囲い込み続ける方法だったのだ。

彼らが悲しむと、あなたも悲しまなければならない。
彼らが惨めなら、あなたも惨めでなければならない。
違いは許されないのだ。

なぜなら 「 違い 」 とは、究極的には個人へ、個性へと導いてゆくもので
あるが、社会は個人や個性というものを非常に怖れている。

つまり、誰かが群集から独立すると、彼は群集のことはまったく
気にしなくなる。
そして人々の共通の目的や生き方、人々の経典や聖典は、どれも
彼にとっては無意味になってしまう。

今彼は、自分自身の道とライフスタイルを持っている。
彼は自分自身の人生というダンスを踊るために、本来の故郷へ戻って
来たのだ。
しかし群集は故郷へ戻ることはできない。
誰であれ、1 人の個人にならなければ故郷へ帰ることはできないのだ。

自分本来の 「 内なる感覚 」 を取り戻す

それは外側からは観察できない。
頭痛がする時、それはあなたにしかわからない。
しかもそれは証明することもできない。
あなたが幸せな時、それはあなたにしかわからない。

実際、この感覚は完全に内なるものなので、それが存在することさえ
証明することはできない。
科学はその存在をずっと否定し続けているが、それを否定するのは
人間的ではない。
科学者でさえも彼が愛を感じるとき、自分が内なる感情を持っていることを
知っている。

何かがそこにあるのだ!

そしてそれは物質ではないが、それでも確かにそれはそこに存在する。
内なる感覚はそれ自体の妥当性を持っている。
しかし人々は科学的な訓練のために自分の内なる感覚への信頼を失って
しまった。

そうして彼らは他の人に依存するようになった。
誰かが 「 あなたはとても幸せそうに見える 」 と言うと、たちまち幸せを
感じ始めるほどに、あなたは他人の言葉に翻弄されるし依存している。

もし 20 人の人々があなたを不幸せにしようと決めて実行したなら、彼らは
簡単にあなたを不幸せにすることができる。
彼らはただ 1 日中、同じ言葉を繰り返して聞かせればよいのだ。

あなたは彼らと出会うたびに言われる、「 とても不幸で悲しそうに見えますが
どうしたのですか? 何かあったのですか? それとも誰かを亡くしたとか?」
それを 20 人の人々から繰り返し言われるうちに、あなたはこんなに大勢の
人から同じことを言われるなんて、自分は不幸なんじゃないのか?と。

それはほめ言葉も否定的言葉も同じことだ。
あなたは人々の意見に頼り、翻弄され、依存しきっている。
そのために 「 内なる感覚 」 の痕跡をすべて失ってしまっているのだ。

この内なる感覚は再発見しなければならないものだ。
なぜなら美しいもの、善なるもののすべて、そして神聖なもののすべては
内なる感覚でのみ感じられるものだからだ。

人々の意見に影響されるのをやめなさい。

人々の言うことではなく、自分の内側に心を傾けることであり、あなたの
内なる感覚があなたに何か告げることを許しなさい。
あなたがそれに信頼し始めるならば、それはますます大きくなっていくだろう。
あなたの信頼とともにそれらは育 ( はぐく ) まれ、それはもっと強くなっていく。

内なる感覚に出来る限り多くのチャンスを与えなさい。
いつも外の権威や、他人の意見、既成の答えなどを探してはいけない。
あなた自身をそうしたものからもっと独立させなさい。

そしてもっと多くを自分で感じ、あるいはもっと考えないようにしなさい。

バラの花を見に行きなさい。
しかしオウムのように、「 これは美しい 」 と繰り返すのはやめなさい。
これは人々があなたに言った意見に過ぎない。
子どもの頃からずっと、「 バラの花は美しい。素晴らしい花だ 」
と、あなたは聞き続けてきた。

そのためにバラの花を見ると、あなたはコンピューターのように
「 これは美しい 」 と自動的にただ繰り返してしまうのだ。
あなたは本当にそう感じているのだろうか?
もしそうではないのならば、そう言うのはやめなさい。

月を見る時、月は美しい、と言ってはいけない。
それがあなたの内なる感覚ではないのならばだ。
あなたは自分の頭の中に持っている 99 % のものは、実は外から
仕入れた借り物だという事実にびっくりするだろう。

そしてその 99 % の無益なものの中に、あなたの 「 1 パーセントの
内なる感覚 」 が沈んでいるのだ。
だからあなたのものではないそうした知識を落としなさい。
そして、あなたの内なるオリジナルの感覚を再発見しなさい。

神聖なるものを知ることができるのは、「 内なる感覚 」 によってである。
私たちには六つの感覚がある。
五つの感覚は外的なものであり、それに第六感と言う内なる感覚がある。

それはあなた自身について、物事の究極的な根源について、あなたに
何かを示し教えてくれる。
その感覚が発見されなければならないものなのだ。

この世でもっとも大きな恐れとは、他の人々の意見に対する恐れだ。
そしてあなたが群集を怖れなくなったとき、あなたはもはやその羊では
なくなりライオンになる。
その時、あなたのハートから巨大な咆哮 ( ほうこう ) が起こる。

自由の咆哮だ。

初めて彼は自由とは何なのかを知る。
今や誰かの意見に対する恐れはなく、人が何と言おうとかまわない。
彼らがあなたを何と呼ぼうと、それは何の意味も持たない。

そしてあなたの唯一の裁判官は神なのだ。
しかし人は神によって裁かれることはない。
神とは全宇宙を意味しているのだ。

そしてこの宇宙は我々の宇宙であり、我々はその一部だ。
ゆえにそれを怖れる必要はないし、それから何かを隠す必要はない。
実際に、もしそうしようとしても、あなたは隠すことはできない。

全体はすでにそれを知っており、しかも全体はあなたが知っている以上に
さらに多くのあなたのことを知っているのだ。

群集が問題なのではない。あなたが問題なのだ。
群集があなたを引き付けているのではなく、あなたが引き付けられているのだ。

誰か他の人からではなく、あなた自身の中にある無意識の条件付けの
ゆえに引き付けられているのだ。
よって、誰か他人やよそへ責任を押し付けてはいけないということを
覚えておきなさい。
深いところではそれはあなたの責任なのだ。

『 Courage (勇気)』  OSHO   Kadokawa Shotenより抜粋

以上、引用終了。

Awesome ~♪

宇宙 未来への大紀行
( 画像お借り致しました )


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